原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/03/22

9.県外や世界の人達と福島県民との認識の違い

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私はツイッターでたくさんの情報を入れていましたが、昨年は私の呟きを読んでくれた方が拡散し、世界へまでも発信してくださっていました。その行動を思うと、もっと発信しなければならないという責任を感じ、続けて発信していました。

ただそれは一部での動きと言うだけで、ネットの情報と、今目の前で起きている現実とのズレが、まるで夢のような信じ難いような状況でした。だからこそ真実を呟いていました。

私たち福島県民はあの3月の原発事故後、政府の言葉を信じていました。どうしていいか分からないというよりも、原発や放射線のことなどそんなに詳しく知りませんでしたから、疑いませんでした。

なのに、避難指示がなく、原発から遠くても、避難をする人がいました。私が住む所は大丈夫なのか、逃げなくてもいいんだろうかという中途半端な状態でした。

福島市長は、山形に逸早く避難したという情報が出回って、市民の前には全然姿を見せていませんでした。ネットでも広まっていました。

どういうわけか遠くの人達のほうが先に情報を掴み、真っ先に伝えなければならない現場の人間には情報が行き渡っていませんでした。避難区域の双葉町の町長は、テレビで知ったとおっしゃっていました。町長なのにです。しかも、まだ町民が避難していないのに、先にマスコミの人間が、会社からの指示で全員撤退していました。こんな理不尽なことってあるんでしょうか。

事故の際に機能しなければならない、原発から約5km先のオフサイトセンターまでも放射線量が高く、誰も仕事が出来ない状態で4日で撤退したと聞きました。

絶対安全だったはずなのに。

毎日の戦いの最中、マスコミは私達を追いかけました。本当はすごく嫌でたまりませんでした。でも発信しなければ解らない人達がたくさんいると思い引き受けていました。

しかし現実をちゃんと伝えないマスコミには不満が残りました。一般の人達はなんだかんだ言いながらも信じて観ているのに、ちゃんと真実を知りたいのに、隠した報道が多すぎました。「これを言うとまずい」という部分は、ほとんど流してくれませんでした。でも私に情報をくれる方もいました。以前掲載した原発関連の記事を集めて見せてくれて、何故福島に原発が出来たのか、そこで知ることが出来ました。

ある県外の20代の女性の記者に出会いました。その彼女は、今までずっと岩手ばかりを取材して、福島にどうしても行きたいと思っていたので、上司にお願いしたら「お前は若いから福島に入ってはだめだ」と言われ、何故福島に子どもだって住んでいるのに、私が行ってはいけないのかと、上司と喧嘩になったそうです。彼女はどうしても諦めきれず、自分の休みを使って福島の取材に来ていました。

有名なニュースキャスターはもちろん女性は、なるだけ福島には入らないよう指示が出ていたと聞き、本当に信じられませんでした。ありえませんでした。

あるテレビ局の取材の方は「県外に避難するということは考えられませんか?」と私に質問してきました。少し考えましたが、「無いですね。」と言いました。その時の私にはこの土地で防御しながら生きることしか考えられませんでした。

また別の取材の方は、「どう考えても、避難ですよね。」と言っていました。

殆どのマスコミは、何故避難しないのかという疑問ばかりあったのではと思います。しかし福島県民は、なにが本当なのかすら、判らなくなっていたんだと思います。目の前のことで必死で、大丈夫と言う政府の言葉が、頭に染み付いてしまっていました。家族、友人、同僚、近所、職業上放射能のことを言われたら困る人、全く無知な人、皆一人一人の考えや認識が違い、その中で生きているから、あちこちで問題が起こっていました。

夫婦間や友達との間、学校と保護者、会社と社員、町と町民・・・復興を目指しているのは一緒なのに、放射性物質があるために、もめてばかりで全く事が進みませんでした。

少しでも何かしなければと、土を剥がし庭の端に寄せて置いたり、ヒマワリを植えたり、子どもが入らないようにカバーを掛けたり、いろんなことをすべてやりました。

学校行事は中止になったり、制限を掛けて行ったりしました。

夏のプールはありませんでした。夏休み明けに1回、屋内のプールに入りに行きました。福島市立の小学校が参加する鼓笛パレードは、中止になりました。息子の学校の運動会では、開催前に色々問題はあったものの、やはり子どもが楽しみにしているし、伸び伸びと走る姿を見てほしいということで開催することになりました。通常は校庭でお昼を食べて午後鼓笛パレードをして、賑やかに盛大にやるのに、今年は競技の数を減らし、なるだけ土埃が立たないような種目を選び、なるだけ土に触れないような努力をしました。お昼前には終了し、校庭に並べた椅子などは、片付ける前に全部高圧洗浄で流してから校内に入れていました。校長先生はじめ、先生方も子どもを守るための配慮を、本当にして下さっていましたが、切ない辛い気持ちで見ていた大人は少なくなかったはずです。

保育所でも、先生方は線量を少しでも下げるために毎日毎日、室内の床と庭の遊具の雑巾がけをしていました。教室の中の放射線量も毎日測定し、ボードに記入し玄関先に掛けて下さっていました。先生方のご苦労は、計り知れないものがありました。気持ちの中で、我慢の限界を通り越していたのではないでしょうか。

ある学校では、運動会でどうしても外に出したくないと言う親に、「あなたのお子さんだけ室内で見ていてもらうしかありません」と言われ泣く人もいました。ある学校では、牛乳を飲ませたくないと言う親に、「絶対大丈夫なのにどうして」と問いただす校長もいました。「そのことを他の人に言ったりしないでください」と口止めをする先生もいました。不安な気持ちをもっと汲んでほしいのに、先生はこれ以上不安を増やしたくないと言う思いだったのでしょうが、どこかから歯車が狂ってしまい、我慢が出来なくなった親達は次々に転校していきました。もう言っても仕方が無いと、泣き寝入りする親もいました。

高校生などは、殆どと言っていいほど制限も除染もせずに部活動も普通に行ったりしていました。高校生はまだ成長の途中です。細胞分裂が活発な時期なのに、視野に入れてもらえず、泣く親達がたくさんいたはずです。中学校だってマスクをしなさいと言っても、思春期の子どもは反発し、つけたくないと、親を困らせました。

危機意識を持つ人は我慢をしなければ、考え方を変えなければ、そこで生活がうまく出来ませんでした。

県内の人達だけが辛いのではありません。

県外から福島県内の学校に入ることになった学生がいました。その子は放射線が心配で毎日マスクをしていましたが、まわりから「放射能が怖いのか?」と言われ、いつのまにかマスクを外すようになりました。その子は、実家に泣いて電話をしてきたそうです。

福島県の人々は、本当に頑張っています。でも、目に見えないものが存在しているために、混乱状態が続いています。気持ちがバラバラになり、交友関係までも引き裂かれ、心はズタズタにされながらも生きています。

それなのに野田総理は、原発はもう落ち着いたと言う「嘘」を世界に伝えました。野田総理は、何を根拠にそんな発表をしたのでしょうか。福島県民は誰も落ち着いてなどいません。

震災から一年経った今、少しずつですが、政府と東電の無責任な行動や言動が明らかになり、言葉も出ないほどです。しかしこの杜撰なやり方に、人々は気づきはじめています。

もっとこうしていればよかったのにという反省や後悔ばかりが残り、それはこの先何年も続き、振り回されることでしょう。しかし、福島県民にとっては現実を知ることが復興の第一歩なのです。大丈夫と思いたい気持ちはもちろん理解できるし、この福島で震災前の当たり前の生活を取り戻したいと皆思っています。だからこそ被曝の恐ろしさを福島の人はもっと知るべきなのです。周りの人達の方が福島県民よりも放射線のことを知っているなんて、おかしいことです。でも昨年はそんな状況だったのです。

世界は被曝の恐ろしさを良く知っています。あの核実験をしている国でさえわかっています。だからこそ厳しい基準を設けているのです。日本はそれが全く出来ていません。何を思ったか医療の力に頼ろうとしています。たとえ病気になっても、最先端の医療が私達を助けてくれると信じて、わざわざ妊婦子どもにまで未だ無防備に被曝させ続けています。だから医療費を無料にするとか、定期的に検査をするとかじゃなくて、その前に病気にならないような環境にしてくれなきゃ、意味が無いではありませんか。何故それをしてくれないんでしょうか。この国は、子どもの命を掛けてまで、経済産業を大事にしたいのでしょうか。命は、人間だけが持つものではないことも、全然判っていません。動物も、土も木も水も空気も全部が命なのです。命を繋ぐことは、誰もが学校で習ってきたはずです。いつからこんなことになってしまったのでしょうか。

間違ったことをしている人よりも正しいことを言う人がバッシングを受けるのはまるでいじめのようなものです。一人一人の意識があるかないかで知らない間に仲間外れにする空気が生まれるから怖いです。気付いた人は、決して怖がらずに諦めずに前に進んでほしいです。あまり判らない人はとにかく中途半端にせず調べたり聞いたりすることです。興味がない人はこれを読んでいないでしょう。耳を塞ぐ人には決して無理に押し付けないでください。きっと言われたら苦しいからそうしているのです。出来るだけ、聞き役に徹することです。少しずつ、少しずつ伝えていくことです。その作業が福島県民の分断を避けるひとつの方法だと信じながら、毎日を過ごしています。

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