原発事故被災者手記
馨(けい)の放射戦記

4人の子供と母親の原発事故との戦いの記録

2012/01/26

1.2011年3月11日午後2時46分

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その時私は福島市のコンビニの駐車場、車中にいました。

会社の事務員さんと携帯で話をしている最中で、あまりにも大きく揺れ始め、「一旦切ります!」と電話を切ると、さらに揺れが増し、コンビニの品物は次々に倒れ落ち、隣の家の屋根の瓦が滑り落ちてきて、私は怖くて車にしがみつくように乗っていました。

かなり長い時間揺れていたせいか、近くの工場の高い煙突が大きく揺れているのを見て私は、「まるで映画だ・・・」とどこか冷静に見る自分もいました。

突然雪も降り出し、周りの人達もどうしていいか解らずに右往左往、コンビニの若い女性の店員さんと私は、泣きながら震え抱き合っていました。

電気は落ち、信号も止まって、一時的に海外に単身赴任の夫とは繋がったものの、すぐ連絡が途絶え、幸い車にテレビがあり、それで情報を得て待機していました。

そこには、大きな波がいくつも押し寄せる海の様子が映っていました・・・。

何万という人達が大津波の犠牲になり、いまだ行方不明者もいます。今思えば、きっとこの時こうしていれば助かったかもしれない、そう後悔する人々はたくさんいるに違いありません。しかし自然は人間の思いなど関係なく、一瞬にして膨大な被害を生むのだと、身をもって感じた出来事でした。

さらにその出来事が、福島原発事故を引き起こし、今まで罷り通ってきた人達の実態まで教えてくれることになろうとは、夢にも思いませんでした。

11日から水も電気も止まっていた13日の朝、川に水を汲みに行くと、すぐ近くの小さなガソリンスタンドに、原発から遠ざかろうと避難してきた車が長蛇の列を作っていました。一瞬何事かと解らずにいましたが、走って近づくと、ほとんどが車のエンジンを切り、車の中で毛布に包まっていたり、降りて他のスタンドを探していたりしていました。その日から電気はきましたが、水がなく、親戚のうちに井戸水を汲みに行っていました。店は食べ物もガソリンも不足し、でも人は毎日のように並び続けていました。近くのあちこちに避難所があり、支援物資を運んだりしながら買い物に並んだりしているうちに、双葉町のご家族や浪江町の方と仲良くなったりもしました。

爆発後、毎日こうして過ごしている間に放射性物質が空からどれほど降り注いでいたかなど、私達はほとんど知らされずにいました。そもそもその物質がどんな影響を及ぼすのかわからず、不安でいる私達に、国は「直ちに影響はない」と言い続けていました。

だから、何も知らない私達は、少しは安心していたかもしれません。

でも「直ちに影響はない」というその言葉の裏に「徐々に影響がある」と言っているようなものではないかと思い、何かがおかしいと感じ始めていました。

子ども達も震災から休校でしたが、心配でほとんど外に出していませんでした。でも子ども達はだんだんストレスがたまって騒ぎ出し、たまに車で買い物に連れて行っていました。その時の嬉しそうな顔。外に出ないのは本当に辛かったと思います。

そんな中、福島の牛乳やほうれん草に出荷制限が掛ったのです。

食べるものにまで制限が掛かるってこの地域で?まさかと思っていました。

母は胸騒ぎがしたのか「あんたらだけでも避難したほういいんでないの?」と言い出しました。
「そんな言うなら住民票持って行け!」と不満げな父。

子どもは休校に続き春休みに入り、こんな状況ではと会社に了解を得て休みをもらい、3月24日から学校が始まるまで埼玉の親戚のところにお世話になっていました。

4月、学校が始まりました。仕事も徐々に動きだしました。

今後の生活について国の対応を待つ状態で、学校も落ち着かない様子でしたが、県では4月始め、学校や公園などの放射線量の測定をし、公表しました。公表した数字が何を意味しているのかも、その頃はよくわかりませんでしたが、生体が被曝する一時間当たりの大きさをマイクロシーベルト毎時(μSv/h)と表しており、土壌から1cmと1mの高さで測定してありました。震災前は0.04~0.06μSv/hだったのに、子どもが通う学校はその100倍以上の高い数値を示していました。正直その時点で腹が立っていられませんでした。食べ物も制限、土の上もどこの場所も、今までにない状態になってしまったんだと。

でも私はまったく無知だったので、とにかく放射線のことについて色々調べました。こんな専門的なこと、勉強しなければ簡単に理解できるわけがありませんでしたが、私は毎晩必死で情報を集めていました。4月の桜は、悔しいほどきれいでしたが、いつの間にか散っていたのを覚えています。

毎日テレビや新聞、市政だよりなどで放射線の説明をしていました。テレビの画面には常に毎日一時間あたりの放射線量がまるで天気予報のようにテロップに流れ、どういうつもりなのか、筆頭には「胃のX線集団検診の放射線量600μSv」と出てきたあと、各地の一時間あたりの放射線量、例えば2.2μSv/hを表示するという、素人なら誰でも「なんだ、2.2なら600と比べたら全然低いじゃん」と思わせるふざけた比較をしていました。単純計算ですが4月の頃は、1ヶ月に2回以上X線を受けていた被曝量でした。近くの飯舘村川俣町の一部はその何倍もの数値でしたが、強制避難指示が出るまで、直ちに影響はないと言われ続け、大人も子どもも妊婦もみんな、いつも通りの生活を取り戻そうと努力していました。

震災前の福島は、一般人が受ける年間放射線量の指標1000μSv=1ミリシーベルト(mSv)もなく、空気も食べ物もおいしい、野菜もお米も本当に甘くて、自慢の土地でした。現在は年間1mSvなど、1ヶ月も経たずに超える線量でした。

私は電卓で毎日計算していましたが、実際線量計もなかったので、そもそもその放射線が身体にどう影響を及ぼすのかも気になり、素人並ではありますがいつも調べていました。食べ物にまで被害があるんですから当たり前のように自然に動いていた感覚でした。

文部科学省は4月20日、学校の校庭や公園などに基準を設けるため、

暫定的な考えとして、年間 20mSv を上限とし、それから逆算した3.8μSv/hを基準に屋外制限をかけ、それ以下は普通の生活をしても問題ないといった、とんでもない目安を決めてしまいました。食べ物や呼吸から取り込んだりする内部の被曝を全く無視した計算でした。

うちの子供が通う学校は、3.7μSv/h で基準以下だったため、普通に生活してよいとされました。この 0.1 の違いの意味はいったいどこにあるのでしょうか。

しかも土の上1cm で測定していた高さを 50cm まで引き上げて測定していました。私は怒りが込み上げました。

その前にそこに住む人達は、目の前にどんな放射性物質が落ちているかも判らないのに、満遍なく調べてもいない土の上で生活しているのです。その土の上で転んで怪我をしたその場所に、放射性物質があるかもしれないのです。怪我をした傷口から放射性物質が入り込んだら、人間の細胞を壊してゆくことは、今となっては知る人は多いかもしれませんが、あの頃は解らなかった人がたくさんいました。年間 20mSv を決める前日、子どもは影響を受けやすいことから 10mSv を検討するような記事が出ていたので、いきなり倍の 20mSv とは驚きました。10mSv では、何か都合が悪くなると予測していたかのようなやり方に取れました。

それからすぐでした。線量が0.6μSv/h(3ヶ月で1.3mSv)を超える危険がある場合は放射線管理区域で、18歳未満はそこにいてはいけないことが、法律で決まっていることを知ったのは。

日本弁護士連合会会長は19日、それについての声明文を出していました。

私は、そのことを先生方はご存知なのかと思い、その書面を持参して子どもが通う小中学校、保育所にも聞きに行きました。しかし、どの先生も知らず、挙句「国民が国のいうことを聞かなければ国は成り立っていかないでしょう」とおっしゃる先生がいて、私は悔しくて泣きながら「先生一個人としてこの声明文と法律の書面を読んで、感じ取ってください、色々考えてください!」と言って置いてきてしまいました。

いったいどういう感覚なのかと、その先生を信じることができませんでした。

結局は学校もどうしていいのか判らない状態で、中学校は、屋外活動をするために保護者の許可をとることになり、子どもが便りをもらってきました。心配な親は、この状態ではできるだけ外で活動させたくありませんが、それは結果的にそれぞれの子ども達を困らせることになりました。それはどの大人もわかっていたはずなのに、言われるがままやるしかないんだという大人が思いのほか多いことに、虚しさを感じました。

その頃から私の生活は、どんどん変わっていきました。

私は、今まで当たり前の生活にあったものを、改めて考え直していかなければいけないと思うようになっていましたが、いつまでも落ち込んではいられず、仕事もしなければいけないし、いくら子ども達が心配でも学校には行かせなくてはいけない、先生方だって、学校の仕事があれば出勤せざるを得ないのです。仕事や子育てをしながら、今までにない放射能と向き合うなんてちゃんとできるわけがありません。だから何も判らない人間は、いつも通りの生活に戻りたい方を選んでしまうのです。

放射線の知識があったり、情報が早い人間は、3月11日、まだ原発の爆発が起きる前の時点で避難をしています。後から知りました。

知り合いにそういう人がいなかったら、わからないで終わってしまいます。何も知らなかった、知らされなかったと、泣き寝入りするほかなくなるのです。

もっと子どもの未来や命を大切にする国だと思い込んでいました。しかし、震災によって原発事故が起きたことで、あまりにも杜撰で卑怯なやり方を繰り返していたのだと、呆れながらも確信していました。緊急事態だと言い張り、法律を守らない国は犯罪行為を淡々と行っているのです。

今「FUKUSHIMA」がどれほど世界に注目されているのか、もしかしたら福島県民が一番知らされていないかもしれません。常に「復興」が先立って、まるで原発事故などなかったかのような空気。これは大人達が作り上げてきた、大人達の責任です。

たまたま福島で起きましたが、放射性物質が風に乗り拡散するのは、壁があるわけじゃないのですから、福島だけではないことも、理解すべきです。原発があるところではどこでもありうることなのですから他人事ではないのです。

これからの日本を担う子ども達にこのままこの環境を引き継ぎ残していいのかを、私達大人はもっと真剣に考え直さなければならない状況なのではないでしょうか。

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